サラダボール「髪をかきあげる」(2018.09.22)

本日は蛸蔵にてサラダボール「髪をかきあげる」を見てきましたよ。例によって感想文。
 
この作品は岸田戯曲賞を受賞するなど活躍され、現在は愛媛に住まれている鈴江俊郎さんが90年代後半に発表されたもので、演出の西村さんがパンフレットに書かれていたように、当時の個人個人が感じた「ザラザラ」や「喪失感」を現代の「息苦しさ」に当てはめて、そこに向き合う若者にスポットを当てる形で作ったと書かれていました。
 
作品の中には、当時の時代を象徴するような出来事は何もなく、それぞれに事情を持った若者や夫婦の心の隙間が描かれており、同じ時代でバラバラに生きている人物達が少しずつ重なったり、離れたり、なんとも言えない空虚感は確かに作品が書かれた当時と、そして現在と繋がっているなーと思いました。
 
ちょっと話がそれますが、自分はこどもの頃、ものすごい偏頭痛を持っていて、目を開けられないくらいの頭痛の中「熱がないのなら大丈夫、それはただの甘え」って教えられて「僕だけじゃなくてみんなこれくらい痛い中生きてるんだなー」なんて疑いなく過ごしていたことを思い出しました。
それは作品の描かれた90年代の世の中の空気もいっしょで「どうせパチンと音がして、みんな夢のように消え去って」って歌のような世界でも、日々なにかを考えたり、誰かと話をしたり、手痛い失敗をして学んだり、その世界を当たり前のものとして受け入れて、しっかり生きていたよなーなんて思った事でした。
 
「生きにくい」「生きづらさ」って言葉は最近たくさん目にするし、自分自身も使うことが多くなりました。
ふんじゃ「生きやすい」世の中ってどんなんじゃろう。
きっとこれは100人いたら100人の正解があって、どれも交わる事がないのかなー。
相手に求めること、受け止めること、すれ違うこと、たまにちょっと重なること。それこそが人生なんじゃないかなーなんて舞台を追いながら考えてました。
 
はぁ。
なんだかしんみりした感じなのは、しっかり作られた作品だからこそ、自分の何かしらを重ねて胸がザワザワしてるからに違いない。
なんだあの登場人物は。ざわざわざわ。
 
ちなみにサラダボールさんはあさって月曜まで、本作を含む2作品を上演します。
わたしはワークショップやらでもう1作品は観劇できませんが、こんな丁寧な、テクニカルのクオリティも高い作品を見られるまたとない機会ですので、どうぞたくさんの方に見ていただけますように!
チケット予約も繋ぎますのでゆうてくださいねー。