三遊亭歌彦インタビュー

高知県東洋町出身。落語の面白さに魅了され、プロの世界に飛び込んだ三遊亭歌彦さん。
昨年前座から二ツ目に昇進し、さらに芸に磨きをかける伸び盛りのタイミングで高知凱旋公演が決まりました。そんな歌彦さんの生い立ちから落語の出会い、高知公演への意気込みをお聞きしました。(聞き手:吉田剛治)

−−今日はよろしくお願いします。僕自身が落語の世界についての知識が全然無いので、もし失礼なことを言ったらちゃんと怒ってくださいね(笑)。

いえいえ、全然(笑)。知らない方に知ってもらうのも大事な仕事ですので何でも聞いてください。

−−ちなみに落語会では事前に演目は発表されないんですか?「この噺をします」とか。

そうですね、独演会だったらネタ出し(事前に演目を発表)することもあるんですが、今回は自分の落語は1本だけですし、あまり手前に決めずに本番に向けて演目を選んでいくようにします。あと寄席でしたら、当日の前座から順番にネタが決まっていくので、後に出る落語家さんは演目が書かれたネタ帳をもらって、似た噺とか、登場人物が近い噺なんかを削っていって「じゃあ今日はこれをしよう」ってネタを決めるんです。だから夜トリ(夜席のトリ[主任]、その日の寄席の最後に上がる噺家のこと)を務める師匠は実力と共にネタのバリエーションも豊富じゃないといけません。

−−へー(感心)。と、こんな感じで今回伺わせてもらいますので、ホントすみません。ではまずご出身についてなんですが、東洋町のお生まれということで。

はい、東洋町甲浦ですね。高知の端っこの。中学校まで地元の学校に通って、高校から高知市の土佐塾高等学校に進学しました。

−−それは町一番の秀才児みたいな。

そんなことないですよ(笑)、たまたまです!僕が中学の頃は全校部活制で、バスケットボールを頑張っていたのと、生徒会⻑を務めたこともあって推薦してもらったんじゃないかと思います。

−−中学生当時はどんなことに興味がありました?

基本部活だけでしたね。朝は7時前から朝練の準備して、朝練して、授業受けて、授業終わったら19:30まで部活して。帰ってご飯食べて宿題したらもう眠くって(笑)。

−−お休みの時はどんなに過ごしていました?

春になったらクワを持ってタケノコを掘りに行ったり、イタドリを取りに行ったり。夏になったら海や川に行ったり稲刈りを手伝ったり。秋になったら柿を取ったりって、田舎らしい生活をしていました。

−−そして土佐塾高等学校に進学されます。部活動は引き続きバスケだったんですか?

バスケ部に入部したんですが1年の途中でマネージャーに転向しました。土佐塾は中学もあるので、中学生の指導をしたり、審判の免許を取りに行ったりしていました。バスケには何かしら関わりたいって思いと、あとは寮生だったので寮と学校の往復で高校生活を終わりたくないなっていうのもありましたね。

−−まだこの時点で落語に出会っては?

ないです。それが今回の来高で、土佐塾中学の3年生を対象に学校公演をやったんですよ。落語というものの存在とともに、落語ってこんいうものなんだと、知ってもらえるキッカケになれば嬉しいです。

(土佐塾中学高等学校での寄席)

−−高校を卒業して、関西学院大学に進学されます。

はい、東洋町から徐々に都会に行って(笑)。ここで初めて落語に出会いました。いまの義兄が大学の落語研究会に入っていて、その発表を見に行ったのがきっかけです。当時僕はバスケサークルに入っていたんですけど、スポーツだと年齢とともに出来なくなることもあるから、それ以外の趣味も見つけようって思いで落語研究会に入りました。けど、いま思い返せば、小学生の頃から人前で面白いことをしたり、テレビのお笑いを真似て友達とやったり、人を楽しませるのが好きだったんです。小学校6年生の卒業の時に、先生から表彰状をもらえるようになっていて、僕は「お笑いの才能があるで賞」をもらったくらいで(笑)。

−−そんな小中学生だったら…相当モテたんじゃないんですか?

いやあ…(沈黙)全然ですよ。お母さん方には人気でしたね(笑)。僕の本名は原田仁樹と言うんですが「娘を結婚させるなら仁樹がいいわね」なんて言われたりしてました(笑)。

−−脱線しちゃってすみません(笑)。では落語をはじめてからのお話に。

実際にやる側になったら、お客さんに喜んでもらえるのが何より嬉しくって、もっとお客さんに楽しんでもらえるように落語を勉強して、今活躍されている師匠方や、もっと遡って名人と言われた師匠方のCDを聞いたり、本を読んだりしているうちに、どんどん落語の魅力にはまっていきました。

−−落語というのは間口の広い文化だと思うのですが、いざプロになるというのは相当なことだと思います。ちなみに同じ大学からプロになられた方はいらっしゃるんですか?

大学の落語研究会からは桂文華師匠がはじめてプロになられて、そのお弟子さんで桂華紋兄さんや、春風亭昇々兄さんが先輩としていらっしゃいます。ただ自分が在籍している時にはその方々はみんなプロで活躍されていたので、直接的には関わりがほとんど無かったんです。そんな中、落語にのめり込んでいった3年生の時に、「人生は一度きりだし、こんなに落語が好きだし、好きなことを商売にしたいな」って気持ちがだんだん大きくなって、これをきっかけに東京の寄席に初めて行ったんです。早朝に新宿のバスターミナルに着いて、そこから一番近い寄席の新宿末廣亭に行ったら、たまたまその日の昼席のトリを僕の師匠の三遊亭歌奴が取っていて。当時は名前も知らなかったんですが、その日出演した30組くらいの芸人の中でも一番凄かったんです。

−−すごい出会いですね…。そうやって学校のお休みの時に東京に行かれていろんな寄席を見られるようになったと。

そうですね。寄席は11時くらいから始まるんですけど、そこから夜の9時くらいまで、一日中寄席にいて(笑)。一日中いて2,000円ちょっとで楽しめるんで、こんなお得な娯楽はない(笑)。

−−一日いたら頭クラクラになりそうですね(笑)。けどそうやってストイックに学ばれていたと。

いや、学ぶというよりも楽しんでいましたね(笑)。でも「こんな噺があるのかー」とか、「こんな落語家さんがいるのかー」って当時は自分の知識も無かったので、いろいろを知る機会にはなりました。

−−そして、いよいよ歌奴さんに弟子入りとなる訳ですが、これはいつの時ですか?

大学4年生になって、卒業間近の1月25日に弟子入り志願しました。鈴本演芸場というところに師匠が出ていて、そこはお客さんと演者の出入り口が一緒なんです。そこで待ち構えて、師匠が自分の出番を終えて出てきた瞬間に駆け込んで「師匠!弟子にしてください!」って。

−−劇的ですね…。その時師匠はどんな反応だったんですか?

「おお!?」って驚いた感じで(笑)。「次の寄席まで時間あるから、メシいっしょに食べようか」って食事に連れて行ってもらって。そこで落語家の仕事について説明してもらいました。その上で本気で落語家になる気があるのなら手紙を出してきなさいって言ってもらって、関⻄に戻ってすぐに手紙を書きました

−−師匠からしたら、相手のことは全く知らない中で、人間を見極めないといけないわけですから大変ですよね。

そうですよね。こっちはなりたい一心ですけど、受ける側ってのは相当(大変)だと思います。これは後になって知ったのですが、ウチの師匠は「40歳になるまでは弟子を取らない」って決めていて、僕が弟子入り志願をしたのが39歳と11カ月というタイミングだったんです。そうして手紙を出した後、師匠から電話がかかってきて「親御さんにも連絡をさせてくれ」と自分の親に電話していただいて、正式に弟子入りが認められました。

−−ご両親はどんな反応だったんでしょう?

師匠から電話が行く前に僕から話をしました。家族でご飯を食べているときに神妙な感じで「相談したいことがある…」って切り出して。「落語家になりたい」って。

−−それはさぞ驚かれたんじゃないですか?

いや、大喜びしてくれたんですよ。「バンザーイ!ついに真っ当な道から外れた!」って(笑)。どんな親だ(笑)。きっと両親は僕が学校の先生になるって思っていたんですけど、一貫して「やりたいことはやりなさい」って応援してくれる教育方針だったんで、本当に感謝してます。

−−ではここから、弟子入りしてからについてお伺いします。落語家に弟子入りをすると、いったいどんな暮らしをされるんでしょうか?

ウチの師匠・歌奴は(歌彦の)大師匠の3代目三遊亭圓歌の家に住み込みで働いていたそうですが、今は住み込みというのは少なくなっていて、私は「通い(師匠の家に通いながら修行をする)」でした。落語家には「前座」「二ツ目」「真打」と階級があるんですが、弟子入りしたらすぐに前座になれるのではなく、今は「前座見習い」という期間があるんです。師匠から「前座になったら毎日寄席での仕事があるけど、収入も少ないので今のうちににアルバイトをして貯金をしておきなさい」と言われて、その時大学の落語研究会の同期で、お笑い芸人を目指している人間がいて、もう一人と3人でシェアハウス…いや狭い部屋なのでシェアルームをして(笑)、稽古や師匠のお付きの仕事がないときはアルバイトをしてお金を貯めながら10カ月くらい過ごして、2018年1月21日に前座として楽屋入りしました。

−−前座のお仕事はどんなことをされるんですか?

楽屋の掃除から始まって、師匠方がお着替えをするときに手伝ったり、お茶を出したり、出囃子と呼ばれる太鼓を叩いたり、あとは高座返しという演者と演者の間に座布団を裏返してメクリを返したりというのが基本的な仕事です。

−−そんな中でプロとしてお客さんの前で経験を積むことも大事なんですね。

それもありますし、師匠方の高座の実際の芸や、楽屋の振る舞いなどを「見て学ぶ」期間ですね。

−−ちなみに落語の稽古っていうのはどんなにされるんでしょう?

ネタを覚えることで言えば、ウチの師匠からも教えてもらいますが、師匠から許可をもらえたら、どの師匠に習いに行っても良くって、「このネタを教えてください」とお願いしたら、差し向かいで一席やってくれるんです。それを録音して覚えて、改めて見てもらうという形です。ちなみに昔は「三遍稽古」といってレコーダーなどを使わず、三日間、三回の稽古でネタを覚えるという稽古の仕方もありました。

−−ということは、いわゆるテキストは無いってことですか?

無いです。教科書のようなものがある訳でなく、口伝でネタを伝えていくんです。

−−ということは、時代によって少しずつネタも変様していったりもするんですか?

もちろんそれはありますね。言い回しであったり分かりやすさであったり。あと同じネタでも落語家によってくすぐり(いわゆるボケ)を入れたりするんですが、ネタを伝える際にはそのくすぐりを抜いて、噺の幹の部分をしっかり教えていただいて、それに自分で枝や葉を付けていって、落語という1本の木にしていくという感じです。

−−そしていよいよ二ツ目に昇進されます。前座と比べて大きく違うのは、どういったことでしょう?

前座のように寄席に詰めて仕事をすることがなくなる代わりに、自分で落語会を主催したり、寄席や落語会の出番を頂かないと仕事がないという事が大きな違いです。つまり落語の仕事だけで食べていくということですね。

−−そんな中での高知での落語会です。歌彦さんが高知で落語をするのは今回初めてですか?

自分の名前を使って落語会をするのは初めてです。春風亭一之輔師匠が昨年10月にグリーンホールで独演会をやられた際にお仕事をいただいて一席やりました。ただこの時はチラシやポスターには自分の名前は載っていなかったんです。

−−では今回は大々的に歌彦さんのお名前も出て「凱旋公演」という形ですよね。

はい、二ツ目に昇進したタイミングで地元での落語会はやりたくって、実は昨年の3月に計画をしていたのですが、新型コロナウイルスの状況もあって時期が後ろになって今回になりました。二ツ目の時点で落語会をやるというのは、まだ修行中の段階で、芸を磨いて、一人前の真打になる段階を知ってもらいたいというのと、あとは寄席が僕らのホームグラウンドになるので、真打に昇進した際にいろんな寄席でお客さんをいっぱい集めるためには各地で名前を売っていくというのも大事なんです。

−−二ツ目の期間の目標は?

落語のネタ数を増やし、質をあげていくこと。地元高知に落語の魅力を拡げていくこともそうですし、逆に僕の落語を通じて東京のお客さんに高知の良さを知ってもらえたらいいなって思っています。

−−それでは今回の落語会について教えてください。出演は歌彦さんの他に師匠の三遊亭歌奴さん、桂雀々さん、三遊亭志う歌さん、前座で三遊亭まんとさんが出演されますが、こちらの出演依頼も歌彦さんがされるのですか?

私がお願いしました。口上(昇進披露の時の挨拶)というのがありまして、そこに師匠に並んで頂く事が通例となってますので、師匠・歌奴に出演してもらいますし、また一門ということで三遊亭志う歌師匠にも出てもらいます。あとは上方落語の面白さを知ってもらいたいと、東京でもお世話になっております桂雀々師匠にもお願いしました。三遊亭まんとは同郷(四万十町)ということで声がけしています。三遊亭まんとが入るまでは自分が所属している一般社団法人落語協会という⻑い歴史のある協会で高知出身は僕が初めてだったんです。それなのにすぐに三遊亭まんとが入ってきて「なんだよ!」って思いながら(笑)。でもやっぱり同郷っていうのは可愛いものですから。また太神楽の鏡味仙志郎師匠もお呼びします。今回は寄席をギュッとしたようなイメージで、さらに口上という高知では見られないようなものもありますので、それを楽しみに来ていただきたいです。

−−それでは今回の意気込みをお願いします。

お呼びした師匠方が凄い方ばかりですけど、皆さんに負けないように、一生懸命稽古して、あと僕のことを知ってくれている人がいるという地の利を活かした(笑)形で臨みたいと思います。また高知で落語を生で楽しめる機会をこれからもドンドン作っていくために、今回頑張らなきゃなって思ってます。

−−ありがとうございました!三遊亭歌彦二ツ目昇進披露公演、高知祝いの落語会は2022年7月10日(日)高知県立県民文化ホール・グリーンホールで開催です。沢山のご来場をお待ちしています!

歌つを改メ三遊亭歌彦二ツ目昇進披露落語会特設サイト
三遊亭歌彦公式サイト

─────────────────────

聞き手・文=吉田剛治
1973年高知市生まれ。高知を拠点に⻑年舞台制作業務に携わる。現在は高知市にある藁倉庫を改装した劇場「蛸蔵」の運営や、市⺠による音楽交流団体「国際的な音楽交流を中心に高知を楽しくするプロジェクト」、自主上映団体「Sound=Cinema」の事務局を務めるほか、高知の若手演劇人の底上げを目的としたプロデュース公演などを行う。また公演の執筆業など、舞台に関する活動は多岐にわたる。