南河内万歳一座「似世物小屋」(2015.11.30)

週末の蛸蔵ラボの心地よい余韻と筋肉痛を引きずって、南河内万歳一座「似世物小屋」を観劇してきました。
昨晩(月曜)観劇して、今日はしゅっと帰る予定が、諸般の事情により本日のマチネも観させていただいて先ほど帰宅。ラボの10公演に加え、この2日間の大阪の情報で頭がぐっちゃぐちゃですが、ひとまず感想文。

今回の観劇ツアーは諸々重なった関係でかずやさんとの二人旅となりまして。行きの車中でラボの感想やら今後の活動やら下世話な色恋話やらに花を咲かせていたのですが、その中で、先日ちらりとFacebookにも書いた高橋徹也さんの「考えてみれば人の一生とはたった一つの同じテーマを少しずつ違うやり方で再現しているだけの退屈な映画のようなものかもしれない」という詩の話もしてまして。自分に当てはめて考えた、まぁ自身の人生に対する弱音的な話などもしながら観劇に臨んだ次第です。

というのも「似世物小屋」の初演は2009年、ちょうど高知でも上演していただいてまして。かなり重いテーマの作品の記憶と、当時滅茶苦茶な状態だった私事の記憶が重なってどよーん、そして現状の八方ふさがりな案件のどよーんも重なるというありさま。はあ。生きるってたいへん。

初演の中心となるテーマはざっくり言うと「没個性は仮の姿、でも本当の自分はそうじゃない」「じゃぁ、本当の自分ってなんなんだよ」「本当とか本物って誰が評価するの?誰も本物なんて分からないんじゃないの?自分自身ですら分からないだろ?」という風に感じていましたが、今回はさらにその場面を俯瞰する新しい視点が加わり、全く違う作品に生まれ変わっていました。

劇作家である内藤さん自身の悩みや、内藤さんの先生である故秋浜先生の暖かい視線も感じる何層にもわたる不思議な劇中劇。
表現に真摯に向き合うことで生じる孤独感や絶望感。そんな中で発せられる「未完でもいい、せめて自分がアコガレル自分になりなさい」という台詞は、まるでただの客である自分自身を見透かされていたかのような衝撃でした。作品の中でここまで勇気づけられ、背中を押された経験は初めてで、もうなんと言っていいのやら。あと理由は分からないのですが、初演と同様のエンディングでは全く見え方や印象が変わり、なぜか涙が溢れてしまった次第です。原因不明。年を取ると涙もろくなるというのは本当なのか。

今回の感想はちょっとうまくまとめることができないのですが、「生きる力」を優しく暖かくもらえたような、ステキなお芝居でした。
万歳と出会うことができてよかったな。
ありがとうございました。

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藤田辰也さんについて

自分が演劇に腰を据えて向かうようになったきっかけである南河内万歳一座の素晴らしい演劇人。

大切な時間を何度か一緒させていただいた。一緒の場では緊張し、尊敬し、ばかだなーって苦笑いしちゃう、大好きな演劇人、音楽家の藤田さん。

ちょっと古くって、口笛風の主旋律が大好きでした。いや、大好きです。