劇団いちびり一家「ゴロニャーゴ」(2019.10.13)
シアトリカル應典院にて劇団いちびり一家「ゴロニャーゴ」を観てきましたよ。例によって感想文。
2017年に観た「スカート」で魅了され、今年行われた劇団初の旅公演「アオイツキ」では高知にお迎えするなど、わたくしすっかりいちびりファンとなっておりますが、「いちびり作品のどういうところが面白いの?」と問われたとしたら「そうっすねぇ…。いろいろあるけど…一番は台詞のひとつひとつから発せられる、詩のような輝きかなー」と答えるかしら。
素敵な言葉たちがどんどん積み重なって溢れていく(個人的に情報を処理できないとも言う)、もったいないけどある意味贅沢な感覚もいちびりならではと思います(なので観劇後、同じ作品をもう一回観たいと毎度思ってます)。
そうやって言葉が、音楽が、俳優の肉体が、声が放つ、生命力に満ちた世界の一方で、これまでぼくが観劇した作品には「喪失」と「それに向き合う人」というテーマが常に描かれていて、ある意味これはさっかんという作家の誠実さの形なのかなーなんてことも思ってました。
さて今回。
さっかんが描いたのは安部公房の「密会」、イプセンの「人形の家」という2つの作品をモチーフにした、愛の物語でした。
予想外。
引っ越し前の深夜、突然救急車がやってきて連れて行かれた妻を探して、入り口の分からない病院の裏手まで辿り着いた男。
その病院に入院しているような雰囲気の怪しい連中に、看護師のような人、先生のような人。謎の女性。
「妻を探す男」と「夫の愛情に疑問を持った女」を物語の主軸にして見ていたら、物語の後半ではその関係すら「彼女の頭の中で作り上げた世界?」「正体はスライム女?」「先生が思いを馳せていた人?」「妻を探していた男の存在は?」と沢山の「?」が溢れていきました。
重いテーマながらも、あくまでもバカバカしく、物語を遊んでいく展開ではあったのですが、それでも途中途中の、例えば吉井さんと今井さんの冒頭の掛け合い(どっちがバカかのくだり)のホントだったら笑う場面かも知れないけど、その切迫さにどうしようもなく胸が苦しくなったり、看護師のふりをしている入院患者に対して、激昂のあまり、これまで彼女を尊重していた先生が現実を突きつける場面など、散りばめられた痛みの強さも相当なものでした。
物語のラスト、雨に打たれて穴の空いた女性の手を握り、抱きしめる場面。
あの時のふたりは、出会えた喜びが溢れていたのかなー。
パー子が売っていた紙コップは、何と何を繋ぐ装置だったのかなー。
あの紙袋に、果たして猫はいたのかなー。
いちびりの新しい世界って言ってもいいのかしら、沢山の余韻をじっくり感じていたい観劇体験でした。
みなさん、ありがとうございました!
(余談)
今回もさっかんが1人だけ、マイクをつけていない姿に、そして喉を痛めてたにも関わらず、マイクを付けているみんなと合わせてもコーラスがバランス良く聞こえる声量に和んだことも記しておきますw。