ハイバイ「て」岩井秀人インタビュー


劇団結成20周年のハイバイが、代表作「て」を5年ぶりにリクリエイションし、全国ツアーを回ります。
今回の公演にかける意気込みを主宰の岩井秀人さんにお伺いしました。
 
── 高知では2018年に「て」、2021年に「ヒッキー・カンクーントルネード」(以下「ヒッキー」)をやられて以来、約3年ぶり3回目になります。
 
そうですね、3年ぐらいですね。
 
── 僕は普段から見た作品の感想をテキストにしてるんですけど、ハイバイの高知での2作品を見させてもらった時の感想が感想になってなくて。
 
うん(笑)
 
── 例えば「て」の感想ですが、『不完全で不器用で依存と抑圧と愛情が入り組んだ、どこにでもある家族の物語。自分のこどもの頃と、親になってからのこと。自分がしたこと、されたこと。過ぎて忘れたふりしてたことを突きつけられた』っていう、ほんとに短い文章で。
作品自体の精巧さも当然あるし、俳優さんの素晴らしさもあったんですけれど、物語に刺さってしまって、もうそれ以上のことが出てこない(笑)
 
なるほど(笑)
 
── もともと岩井さん自身が引きこもりの経験を経て、そこから俳優として生きていこう、演劇をやろうとしたんですよね。
 
最近もう1回自分で確認するために、当時の記憶を振り返ってみたんですけど。今考えると、「俳優になりたい」の前に、「死にたくなかった」っぽいんですよ。
ずっと「引きこもってる時にWOWOWで映画を見ていて、俳優になりたいと思って出てきた」って話をしてたんですけど、引きこもったまま二十歳になった時に、「あ、自分の人生失敗した」と。これはもう取り返しがつかないなと思って、ベランダから飛び降りて死のうと思った時に、むちゃくちゃ怖くて。
ちゃんと死を意識した時に「怖っ!」って初めて思って、平気で翻したんですよ。
 
── (笑)
 
「さてと、これより怖くなくて、挑戦してないことないかな」っていうので、多分便宜的に見つけたのが俳優っていう、だいぶ時間がかかりそうな夢(笑)
 
── うんうん(笑)
 
もちろん俳優っていう仕事にはすごく憧れてて。現実の中では誰にも生きていることを認識されていない自分っていうのがすごい辛かったけど、映画を見ている間はそれを忘れることができたし。自分の代わりにとんでもない人生を生きている人に感情移入させてもらって、泣かせてもらったり、一緒に怒らせてもらったり、何かを主張させてもらったりっていうのを、ほんとに大興奮しながらさせてもらったから。そこに恩返しとまではいかないけど「ちょっとでもその部品になれたら」みたいな感じで。
 
── 当時の岩井さんは生きるための正当性を探してたんですかね。
 
正当性を見つけるまでもいけないかもしんないですね。飛び降りようとした時に、もう、ほんとに奥の奥の奥の方で、何にも着てない状態の命が「やめろお前!」って言ってたというか。
いろんな自意識を感じれば感じるほど、生きてる意味というのは、問い詰めたらなくなるから。玉ねぎ剥いてって剥いてって、最後になんか残ってて、けど結局空洞だけど、生きようとしている、っていうことをやっと感知したっていうか。
それで外に出て、なんかいろいろ巡り巡って、自分で台本書くことになって。最初に書いたのが「ヒッキー」なんですよね。プロレスラーになりたいけど、引きこもり、っていう物語。
 
── 引きこもり時代の時に演劇を見て、引っかかった作品などはありますか?
 
その時は映画しか見てないんですよ。演劇になったのは結構事故で。映画に出るか映画の監督になりたいって引きこもりから出てきて、日芸を受けようって大検を受けるんですね。で、大検の予備校に行っている間に、うちの母が「あんたこれちょっと出してみたら?」ってハガキを置いてくれて。それが、近所の『俳優してみませんか講座』っていうカルチャースクールだったんです。
珍しく母の言うことを聞いて行ってみたら、当時僕が二十歳だったんですけど、そこは老人の集まりだったんですよね(笑)。でも今考えるとそこがほんとにジャストフィットだったというか。当時やっぱり自意識過剰で、元引きこもりなんで、同年代の人に会うって言うのがもう痛くてしょうがないんですよ。
 
── さらに同年代で演劇を志している人とかっていうと…。
 
ああ、もう、やばいでしょ。
 
── ギラギラですよね(笑)
 
声おっきいもん、絶対~(笑)
 
── (笑)
 
「岩井くん!一緒に頑張ろう!」「台風を巻き起こそう!」みたいな。
 
── (笑)
 
そのカルチャースクールでやれたのはすごく大きくて。そこでの初舞台が、瞼を真っ青に塗って外国人の役をやるってミュージカルだったんですけど、すごい楽しくて。そこの演出の人が「俳優をやりたいんだったら、映画だろうが演劇だろうが、演劇界の東大、『桐朋』に行け」って言ってきたんですよね。でも演劇界の東大って言われてたのはもう、40年近く前の話で。入ってみたら、まあ古臭いこと。でもなぜか頑張って4年間いて。でもほとんど一人で練習してたんですけど。ビデオで撮って。
大学に入ってからもそこにいた演出家の言っていたことをほぼ全て聞かないでやってました。
 
── (笑)
 
とにかく反面教師みたいな考え方でずっと貫いたんで。なんだかんだで、後から考えると、すごく狭く狭くして、自分の審美眼を作り出すみたいなことをやってたっぽいんですよね。
 
── そして「ヒッキー」を発表された。
 
そうです。
 
── 「ヒッキー」から「て」まで、トントン拍子のイメージでした。
 
まあ後から振り返ると5年しか経ってないんですけど、まあその間に2回ぐらい、僕は死にかけてますね。なんかもうダメだって。
 
── それはお客さんの反応だったり、動員だったりってことですか?
 
そうですね。当時はそう思ってました。でも後から考えると動員は増え続けてるんですよね。でもなんか、「もっと鋭く右肩上がりで行かないとおかしい!」って思って。「ヒッキー」は1本目と2本目で動員が倍になってるんですよ、いきなり。
 
── すごい。
 
まあでも1本目が面白かったんで、本当になんも宣伝もしてないのに2つ目で倍になったんで。やっぱりその成功体験をなぞろうとするんですね。
 
── 倍倍ゲーム(笑)
 
全然倍倍ゲームになんないじゃんと思って(笑)。そういう成長曲線の話、誰かしてくれよって思うんですけどね。平田オリザさんも結果的にいいように言いますから。最初の1本目は絶対面白くなくちゃだめ。2本目はもっと面白くなくちゃだめ。みたいなことをずっと言い続けるんです、オリザさんって。結果20本目ぐらいまでは全部面白くなくちゃだめ(笑)
 
── でも5年続けて、「て」によって高い評価を得ました。
 
そうですね。翌年から東京芸術劇場で、野田秀樹さんが芸術監督になるというのが決まってて、そこのプロデューサーの高萩さんが見にきてくれて「これを来年再演してくれ」と言ってきて。うわ、公共ホールが翌年に再演してくれって言ってきた、これは多分えらいことが起きてるぞと思って、それで翌年、ちゃんと動員が倍になったという。
 
── 全国の演劇シーンに名前が拡がったのがこのタイミングでした。そして「ヒッキー」の再演も続いています。
 
自分的にもすごい良かったなって思ったのは、やっぱり再演主体っていうのが、僕にとっては防御でもあるし、目立つ理由にでもなるんだって。
 
── この時点で「再演主体」を言われてたんです?
 
結構早いうちから言っていましたね。そうすると何が起こるかっていうと、「あの劇団打率高くね?」ってなるんですよ。そりゃそうですよね。
今となって振り返ると、再演するよってなった時に、時代性もあんまり取り入れなかったり。ハイバイ自体に評価が高いままキープされたのは、再演主体にして、僕が無謀な冒険をしなかったからだと思うんですね。
 
── ちなみに、本自体も変えてないんですか?
 
ほぼ変えてないですね。「ヒッキー」がちょっといじったくらいで。「て」はもうノータッチですね。
 
── あとは美術プランだったりとか?
 
それは結構やりますね。
 
── 出演者も変わっています。
 
その時々で。僕は俳優さんが好きなんで。「ここまできたらあの俳優さんに出てもらえるんじゃねえか」みたいなことは結構思ってて。
それでいうと今回、「大倉孝二さん、小松和重さんに辿り着いたぞ」っていう感じはありますね。
 
── 「て」の作品について伺います。ご自身の経験を元にした家族の、あれは再生とも言えないし。ある時間を切り取ったというような。
 
そうですね。
 
── それを二つの視線で描いてるイメージで。ひとつは岩井さんの主観で感じたことを、もうひとつは俯瞰した視点で描いたように思えました。
 
初演時のことを振り返ると、劇団としてはすごい大事なタイミングだったんです。初めての下北沢で、ここで外したら死ぬぞっていう時に、書きたいものが一切なくて。唯一書けるとしたら、面白い自信はないけど、むちゃくちゃ腹たった記憶があるあの時期の話で。
祖母が認知症になった、そこで家族が集まろうってなった時に、父ちゃんと前よりさらに仲が悪くなって炸裂したっていうのと、おばあちゃんに対しての兄の態度が酷かったから。それについて、僕と一緒にムカムカしてくださいみたいな作品を作ろうとしたんです。
それである程度プロット書いて、筋までできたところで、母に取材をしたんです。「あの時の父ちゃんと兄ちゃん酷かったよね」って。そしたら「パパは酷かったけど、お兄ちゃんのの態度がなんとかって、どういうこと?」って言われて。「認知症だからしょうがない行動をやたら本気で怒ったり、酷かったじゃん」って話したら、母の目線からは「それは別におばあちゃんを詰めてるとかじゃなくて、お兄ちゃんはおばあちゃんが一番しっかりしてた時を知ってるし、大事な人が目の前でいろんな機能を失っていくっていうことに耐えられなかったんじゃないか」って言われた時に、やばっと思って。「お兄ちゃん悪もんじゃないってこと?」みたいな。
 
── (笑)
 
あ、これ書けない。下北終わった。じゃあ自分の目線と母の目線、両方書くしかないなっていう、ほんとに消去法中の消去法。消去法of消去法。
 
── (笑)。同じ出来事を2周、2つの視点で描いたら、感じ方が全く変わるっていうのは演劇ならではだと思います。
 
そうですね。
 
── 勝手に思ったんですけど、岩井さんはそういうところで自分の何かを保つための劇作なのかなあと。
 
そう。結局作ってみて、自分のためにしかならない作品ができたんですよ。よくあの役(母親役)を自分でやったなと思ったんですけど。それが意味合いとしてはドンピシャというか。自分の視点は自分で知ってるんで、書いて、体験もしてるから。あとは書いたけど体感はしてないぞということで母の視点を舞台上で演じるって、ただただ自分のための心理療法じゃないですか。
 
── そうですね(笑)
 
僕がふざけたババアの格好しながら演じてても、やっぱり目の前に兄役がいて、兄が祖母に向かってとってる態度があって、本来なら僕の役がそれを見て憤ってるみたいなのを見た時に、解釈ができちゃうわけですよ、母としての。そうすると次男としての怒りとかはおさまっていっちゃうし、本当にただの自己治癒というか演劇療法でしか無くなったから。何をやってんだと(笑)
 
── それが大ヒットしてるんですよね。
 
初日に確か、サンプルの松井周くんと演劇ジャーナリストの徳永京子さんがアフタートークに来てくれて「これすごいっすよ」みたいなこと言われて。「マジすか?!」みたいな。
 
── (笑)
 
終演後にみんなが「うちの家族は」とか「うちの場合は母なんですけど」とか、すごい純度の高い、みんなが自分の家族のことを溢れさせながら劇場から出てきてて、「これはすごいな」と思って。「実は私、そういう作家です」と言い始めるみたいな(笑)
 
── 再演を重ねていろんな評価を得ていく中で、自分の中での不思議さっていうのはまだあります?
 
もう不思議さはないですね。再演を重ねていくと自分の話っていうことが剥がれてどっかに行くんですよ。それが一番の、僕にとっての効能だったのかなと思うんですけど。やっぱりどれだけ父親に激怒してた話でも、あんだけ稽古重ねて、大好きな俳優さんにお父さんやってもらって。
 
── (笑)
 
色々再現して、稽古場ではゲラゲラ笑ってたりするんで。それを繰り返してお客さんに見てもらって、あとはお客さんの人生の話を聞いたりとかしていたら、自分の人生をやってるみたいな、抱え込む感じは無くなってきますね。
 
── パブリックなものになっちゃった。
 
なった。みんなのものになってってるなっていうのは、「ヒッキー」の時に思いましたね。引きこもりの話をやって、アフタートークとかで、まだ「今ではもう辛くないんですか?」「引きこもりのご本人役を演じていた方なんですね、、」みたいな目で見られた時に、あ、全然違う!って。
 
── (笑)。そしてハイバイは20周年の全国ツアーを迎えます。今年新たに作る「て」の面白さだったり、おすすめするところはありますか?
 
今回珍しく演出プランを変えようと思っています。次男の目線と母の目線っていうのを、台本上の違いだけじゃなく、もうちょい僕の感覚に近づけるというか。
僕、人に話す時に、面白おかしくしたくなるんです。だからそういう要素はめちゃくちゃ入れようと思っています。前半(次男)の目線は、本当にしょうもない家族として、吉本新喜劇かってくらいふざけている家族。で、二周目になったら、次男の目線以外のものが、皮を剥がされて出てくるみたいな構造にしようと思っていて。そこの落差は結構出るんじゃないかなとは思ってますね。
せっかくあのキャスト集めたんで、やっぱり大倉さんなんて、笑かせたらめちゃくちゃ面白いし、笑かせなくてもめちゃくちゃいいんで。
 
── ありがとうございました!新しい「て」、楽しみにしております!ハイバイ20周年「て」高知公演は、2025年1月18日(土)、高知県立県民文化ホールにて上演します。沢山のご来場、お待ちしております!