親子で楽しむ演劇「にせ桃太郎」(2018.02.24)

今日は蛸蔵にて、親子で楽しむ演劇「にせ桃太郎」を観てきましたよ。例によって感想文。
四国で唯一専門的に演劇を教える四国学院大学の西村さんが、ご自身が率いる劇団サラダボールとご自身が所属する青年団の俳優やスタッフの方と作り上げ、香川、愛媛、高知で上演するという企画でございます。

そのツアーのラスト高知公演、なんと前売り段階で全3ステージ完売。
すごい。
客席も演劇関係者じゃなく、親子連れでぎゅうぎゅう。
すごい。ホントすごい。

高知にちゃんとこういう公演を求めている土壌がしっかりあるんだという驚きというか、確信というか、シアタコをはじめとするみんなの頑張りがちょっとづつ実を結んでるというか、なんだかよく分からない気分でジーンとして、文化行政側の気持ちにもなってズーンともしましたよ。

この動員の理由は地元出演の皆さまとかいろいろあると思うのだけど、個人的な推察では、あのキャッチーなチラシのイラストが大きかったんじゃないかなー。
コンビニの駐車場に座り込んで「行くの?鬼ヶ島」って言ってるダメそうな桃太郎につられてはじめて蛸蔵に来た方も多くいると思います。宣伝美術って、ホントに大切。てやてやにしてはいけないとキュッとなったことでした。

で、作品の感想です。
一言でいうと、本の面白さと演出の方向が乖離していたように思いました。

僕が敬愛するロックミュージシャン真島昌利さんの歌でこんな一節があります。
「こどもの頃はもっと全てが単純だった。あいつが悪者ならこいつが正義だった」
単純な正義や悪などないってのは、今の桃太郎の解釈として、一番感情を乗せやすい、一番まっとうな、一番正しい作品の捉え方だと思います。

で、その上で、なぜ「にせ」だったんだろう。
違う文化圏をイメージさせる鬼の存在や、最後まで現れない登場人物など、いろんな演劇作品のオマージュも見られるのですが、それでも「にせもの」という違和感が拭えなかったのと、後半のストーリーをお客さんに委ねるところは(これも今の演劇の楽しみ方のひとつになりつつありますが)、どうなんだろう…。

「演劇は今の時代を写す鏡である」のは間違いないけど、それでも今の世をそのまま写しているだけならば、この作品はもったいないなと思ったし、今の生きづらい世の中を描いた上で作者と演出家がこの時代に対してどういう思いや希望をを持っているかを僕は知りたかったです。

手拍子やクイズなど、客席を暖めて声を出しやすくする手法は丁寧ではあるけれど、こども向け公演のやり方としてはオーソドックスな感は否めず、よく手を挙げる元気な子の声で後半のお話を決める(格好を取っている)のは、逆に今の日本のよろしくないところが出ているようで、それは西村さんが一番嫌がるようなことじゃないのかなぁ…。

大人もこどもも、みんながそれぞれに劇場で考えて、帰ってからも「どっちがよかったんだろねー」なんて家族でお話が出来る余白が、もっとあってもよかったのかなーなんて思った次第です。

役者さん、魅力的でした。
地元出演のみんな、思った以上にしっかり役をもらって奮闘していました(誰とは言わないけど、特にあの人)。
音楽だってダンスだって(若干唐突だったけど)、舞台美術だって素晴らしかったのに。

こんな感想で、ごめん、西村さん。
また次の作品を見に行きますね。